変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

スクールデイズ

あなたにカラコンは似合わない、とクラスメイトに言われたなら、そいつを殴ってもよいということを、道徳の教科書に載せるべきだね。星や花、夢や恋。きらきらした言葉の裏にも、欲望はこびりついているということを、先生はきちんと教えるべきだね。冷凍庫にある売れ残ったアイスクリームに、同情してしまうほどの感受性はいらないよ。学校からの帰り道、ふっと季節の匂いがして少しだけ涙ぐむ、くらいの感受性で十分だね。やさしさが腐っていくこの教室で、私は罪を背負っているような気がしているよ。寝たふりをしながら。

「街場の文体論」感想文

最近、書くことには意味があるのだと思っている。それは社会にとって意味があるというのではない。私にとって意味がある。書くということは読まれるということだ。たとえ誰にも読まれなかったとしても、読むことができるものを私たちは書く。読むことができないものであっても、それを目にする人は「読むことができない」ということを読み取っているという点を考慮すれば、書かれたものはすべて読むことができると言える。

少し前まで、私は私にとって書くことには意味がないと思っていた。作家が書くことには意味がある。けれど私が書くことには意味がない。そう思っていた。なぜそう思っていたのか。恐らくは私の書くものに対して、私は1ミリも自信をもてなかったからだと思う。なぜ1ミリも自信をもてなかったのか。理由はきっと一つだ。「宛て先」をどうすればよいのか分からなかったからだ。人は何かを書くとき、「宛て先」がなければならない。

私が書けなかったころ(今も書けないけれど)、とあるウェブサイトでこういう企画があった。それは、3年後の自分に手紙を書こうという企画だった。書いたものをそのウェブサイトに送れば、3年後にその手紙がメールで送られてくるというものだった。就職活動が上手くいかずに悲観的になっていた私は、3年後の自分を「宛て先」にして書いた。なんかめちゃくちゃ書けた。内容は要約すると「何があっても俺はお前の味方だ」というようなことだったと思う。書いていて泣きそうになったのを覚えている。そして3年後、本当にメールが来た。ちゃんと読めたし、感動もした。今思うと、私が当時手紙を書いていたときの「宛て先」は3年後の自分だけではなくて、そのウェブサイト(の人たち)でもあったのだ。「宛て先」が3年後の自分だけでは、そこまで書けなかったと思う。いや、全然書けなかっただろう。書けたとしても読むことができるもの(リーダブルなもの)であった可能性は低い。書き手であった私にとって3年後の自分というのは「架空の宛て先」であり、本当の「宛て先」は(当たり前だけれど)そのウェブサイト(の人たち)だったのだ。では「架空の宛て先」は必要ではなかったのかといえば、そうではない。むしろ書くためには必要なものだった。

たとえばお世話になった人に手紙を書く、というようなテレビ番組があるとする。この時に手紙を書く人にとっての「宛て先」はお世話になった人なのだろうか。お世話になった人というのは「架空の宛て先」だ。手紙を書くためにお世話になった人を「架空の宛て先」にしているのだ。本当の「宛て先」はテレビを観ている人たちだろう。書かれたものはお世話になった人に向けた内容になっているけれど、それはお世話になった人に読んでほしいのではない。よくそういう体になっているけれど、読んでほしい(聞いてほしい)のはテレビを観ている人たちだと私は思う。ここらへんは力不足で言葉足らずになるのだけれど、お世話になった人に対して真剣に心を込めて手紙を書いているとしても、その手紙の内容がテレビで放送されると書き手が分かった瞬間に「宛て先」はテレビを観ている人たちになる。そして「宛て先」があることで書き手に読むことができるものにしなくてはという意識あるいは無意識が働き、結果として読むことができるものになる。

このたとえでは、お世話になった人という「架空の宛て先」がなければテレビ番組は成立しないので、「架空の宛て先」は必要だということになる。このたとえに限らず、書くときは誰しもがほとんどの場合、意識していようがいまいが「架空の宛て先」を設定していると思う。「架空の宛て先」のない書き物は絵に近く、詩と呼ばれるのかもしれない。書くことの基本として「架空の宛て先」は必要であり、「宛て先」は読むことができるもの(リーダブルなもの)にするために必要なものなのだろう。ラブレターのような「架空の宛て先」と「宛て先」が一致する場合もあり、そういった場合には「宛て先」があるにも関わらず読むことができないもの(読むに堪えないもの)になってしまうのはなぜだろう。何となく答えはあるのだけれど、もう寝る時間なのでまた機会があれば書きたいと思う。(少しだけ言えば、「宛て先」は一つよりも複数の方がリーダブルになるように思う。)

『街場の文体論』の具体的な内容に触れていないような気もするけれど、気にしない。最後に引用を。

僕は「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達しました。それは実践的に言うと、「情理を尽くして語る」ということになります。

『街場の文体論』を私が理解できたのかは分からないが、面白かった。何より、久しぶりに最後まで本を読むことができて嬉しかった。もう一度読もうと思う。

街場の文体論 (文春文庫)

街場の文体論 (文春文庫)

 

 

 

好きだよが言えなくて

好きだよが言えないから

こうして下らない詩を書くのさ。

好きだよが言えないから

美しいうんこみたいな言葉を探すのさ。

好きだよが言えたなら

詩なんか書かずに抱き合っているさ。

好きだよが言えたなら

恋人と抱き合っているさ。

好きだよが言える

あいつが僕はうらやましいのさ。

好きだよが言えなくて

めちゃくちゃ損をしている気分さ。

好きだよが言えるより

こうして下らない詩を書ける方が

キュートだと思うのさ。

でも好きだよが言えるなら

キュートでなくたって!

今日も好きだよが言えないまま

一日が終わっていく。

ポトフ

よし子がポトフをつくるとき

よし子はひとりで台所にたつ

よし子がポトフをつくるとき

よし子は耳にイヤホンをする

 

よし子がポトフをつくるのは

やるせないことがあったとき

よし子がポトフをつくるのは

つらいときをやりすごすため

 

よし子がポトフをつくるたび

においにつられてねこがなく

よし子がポトフをつくるたび

かもめが海によだれをたらす

 

よし子はポトフをつくっても

ねこやかもめにふるまわない

よし子はポトフをつくったら

ひっそりすべて銀河へながす

unfinished ghost

端っこで生まれた僕は、

きっと永遠に未完成なのさ。

ちゃちなアジテーションにのせられ、

ここまでやって来たのさ。

愛という、地球にしかないはずの

ガラパゴスな概念に

どうしてもなじめなくて、

なじんでいるふりさえできなくて僕は、

真ん中で生まれたやつらの

愛なんて、という

ちゃちなアジテーションにのせられ、

暇つぶしにつかわれ、

ここまでやって来たのさ。

そして、やがて僕は、

お化けになるのさ。

端っこで生まれた僕は、

未完成のまま、やがて

お化けになって、

色のない町で

歌うのさ。

ヤングはそれを

うすぎたなさを隠して

きれいごとを言っている内に、

自分はきれいなんじゃないかって、

錯覚してしまう前に、

ありったけの毒を吐いておこうね。

流れていないように見える川だからって

飛び込むのは危ないよ。

もう何億回も注意しているのに、

ヤングはそれを止めないね。

そんなヤングに私は、

いとしさなんて感じないよ。

#1~#11

#1

 

台風がくるのは来週のはずなのに

さっきから雨がふりやまない

風もびゅーびゅーふいている

雷もごろごろなっている

天気のかみさま

うちの犬がこわがっているので

はやくあの雲をどかしてくれませんか

きゃん、きゃあん、きゃん

 

#2

 

ひまわりがかれている

ほんの一週間まえまでは

元気にさいていたのに

ネットでしらべてみたら

ひまわりの寿命は一週間くらいらしい

こんなにおおきなひまわりよりも

みちばたのざっそうのほうが

長生きするんだね

 

#3

 

夢からさめると

コーヒーのにおいがした

テーブルにつくと

おさらにのった

めだまやきとトーストがでてきた

歯をみがきに洗面所にいくと

歯ブラシがふたつあった

家をでるとき

カギをしめなかった

ああ、そうか

わたしはひとりじゃないのか

 

#4

 

電車にゆられて

会社にいく、とみせかけて

空港にいき飛行機にのって

アフリカにいったら

だれかおどろいてくれるかなあ

 

#5

 

だれもしらない言葉を

わたしはしっている

ん、ではじまり

ん、でおわる言葉

んぬぬんじんこんふにっぺらららん

っていう言葉

 

#6

 

南口の改札をでたところで

まっていたら

だれをまっているんだっけ

とおもった

そして

だれでもいいか

とおもって3時間まっていた

だれもこなかった

 

#7

 

アパートとマンションのちがう点は

アパートは4文字だけれど

マンションは5文字だという点

 

#8

 

「夏がおわるね」

「夏がおわるよ」

「はやいね」

「はやいよ」

「またすぐ夏がくるね」

「またすぐ夏がくるよ」

「もうすぐ夏だよね」

「それはいいすぎ」

「だよね」

 

#9

 

東京から上海まで一歩でたどりつける巨人のおおきさをもとめよ

 

#10

 

父さんは家にかえると

冷蔵庫からビールをとりだし

リビングでそれをのむ

冷蔵庫はえらいなあ

ビールだってえらいよ

まあ、父さんもえらいよ

たぶんね

 

#11

 

家と家のあいだの

とてもほそい道をぬけると

そこは雪国だった

しろくてきれいだった

ふりつもった雪をながめながら

小麦粉のなかにいるみたいだ

と、わたしはおもった

雪をつかんで

ポケットにいれた

これ、もってかえれるかなあ

  

夢からさめると

コーヒーのにおいがした

ポケットがぬれていた