変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

まともが分からない

詳細は省くがちょっとした出来事があった為に自分がまともなのか分からなくなっているのだが、こういう時に僕は、表現物を使って自分がまともであると思おうとしていることに気付いた。たとえば僕は今、星野源の歌をユーチューブで聴いていて、いい歌だな~、とかぼんやりと思っているのだが、『星野源の歌をいい歌だと思える=まとも』みたいな感じで自分がまともだと思おうとしている。それだけではない。さっきまで僕は世界の果てまでイッテQというテレビ番組を観ていて普通に笑っていたのだが、『世界の果てまでイッテQで笑える=まとも』みたいな感じで自分がまともだと思おうとしていた。加えて言えば、自分が書いた記事にたまにではあるがはてなスターが付いていることを思い出して、自分がまともだと思おうとしている。お分かりのように、僕は自分がまともであることの根拠(拠り所)を外部に求めようとしている。そしてそれは間違いではない。僕がまともかどうかを判断するのは僕ではない、僕がいくら自分がまともだと思っていても、他者がまともでないと判断すれば僕はまともでない。

 

少し言い過ぎかもしれない。僕は自分に自信がないのだろう。しかし自分はまともだと思っているクズと、自分はまともでないと思っている紳士では、前者はまともでないと判断されやすく、後者はまともだと判断されやすいだろう。つまり【一般的な】まともかまともでないかの基準は内心でなく容姿、何をするか、どこへ行くか、どのように振る舞うかにあると言ってよいだろう。ただこれが【本質的な】まともかまともでないかの基準という話になってくると哲学?などの領域のテーマになってきそうなので僕には分からない。

 

僕はあくまで【一般的な】まともについて悩んでいる。【一般的な】まともというのは、みんなが良いと思えるものを良いと思えることであり、みんなと同じような容姿をして、同じようなことをして、同じような場所へ行き、同じような振る舞いをすることであり、みんなが分かることを書くことである。みんなが戦争に賛成するなら、賛成するのが【一般的な】まともである。そしてみんなというのは所属する家族や会社や国家のことである。要するにみんなというのは本当のみんなではない。なので所属が変われば、【一般的な】まともかまともでないかの基準も変わる。

 

と、ここまで書いたら、別に【一般的な】まともでなくてもいいやと思ったりもするのだが、【一般的な】まともでなければ、もの凄く生き辛い……。【一般的な】まともでない人というのは疎外されやすくて、その疎外感がめっちゃ辛い……。だから年を取ってもロックだのパンクだのやっている人は本当にすげえですよ。