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変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

ニート、それは空白。

ニートだった時期がある。社会に出てから今までの半分くらいはニートだ。生まれてきてすみません。今は働いているとは言い難いけれど働いている(どっちだよ)。けれど、気持ち的には7割くらいニートだ。そういうだめだめな自分を何とか肯定しようと以下のようなことを書いた。むだな足掻きだ。

 

僕は僕でしかないから他人のことは分からないけれど、もしかすると、みんなそこそこニートなのではないかと思うときがある。ここで言うニートは気持ち的なあれです。気持ち的なあれで言うと、僕は少し前までは、ニートニートでないかのどちらかしか選べなかった。今は幸運にも、ニートではないけれどニートであることが出来ている(?)。言い換えても分からないかもしれないけれど言い換えると、ニートでありつつ働く(気持ち的には7割くらいニートで働く)、というのが出来ている。他者に助けられているから出来ている。(他者が嫌になるのも事実だし、その他者に助けられているのも事実だ。ここら辺の葛藤が少なくない頻度である)

 

人は一人では生きていけない、という定型句のような言葉がある。そして生きるということは谷川俊太郎曰く、ピカソであり、ミニスカートであり、木漏れ陽がなんちゃらであり、泣き、笑い、怒れるということらしい。何を言っているのか分からない人は、谷川俊太郎の『生きる』という詩を読んでみましょう(読んでも分からないかもしれません。僕もあまり分かっていません)。

 

その詩を踏まえた上で思うことは、気持ち的なあれで言うと、生きるためには多少なりともニートでなくてはいけないということだ。多少なりともニートでなくては、ピカソやミニスカートや木漏れ陽や、自分のなかにある感情に気づけない。ニートとは空白だ。僕に空白がなければ、僕に木漏れ陽は差し込まない。すべてが空白になってはいけない。けれど、空白がなくなってもいけない。

 

人は一人ではニートであることが出来ない。ニートという言葉を正確に使うなら、人は一人でもニートであることが出来る。もちろんそんなことは分かっている。けれど、僕がここで使っているニートという言葉は気持ち的なあれだ。ここで使っているニートという言葉は、だらけた青年みたいなものを意味している。伝わらなさそうなたとえで申し訳ない。

 

最後に、(僕の妄想上の)著書『ニート道』から言葉を引用する。

三流のニートは助けを求められずにいる。二流のニートは運良くだれかに助けられている。そして一流のニートは助けられる術を知っている。