変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

少子化が進みまくった社会を超テキトーに想像してみた

ワシャハゲ共和国の諺に「病気になるリスクのないセックスは楽しい」というのがある。セックス、それは本来であれば子供を作る行為だ。しかし私たちは快楽を得るためにセックスをする。それはワシャハゲ共和国も日本も変わらない。

 

私は子供がいないので、親になるとどうなるのかが分からない。親になると、優しくなったり、愛が深くなったり、視野が広くなったりするのだろうか。要するに、人間的に成長するのだろうか。「人間的に成長したいなら、子供を作ろう!」という宣伝を少子化対策として行うなら、どのくらい効果があるだろう。その宣伝に釣られて子供を作る人がいるとしたら、可笑しいな、と少しだけ思う。

 

アンパンマンマーチの中に「何のために生まれて    何をして生きるのか」という歌詞がある。子供は何のために生まれてくるのか。たぶん生物学的には、子供は子供を作るために生まれてくる。そして子供の子供も、子供の子供の子供も、要するに生まれてくる子供はみんな、子供を作るために生まれてくる。人間がいなくなってしまわないように。

 

でも生物学的にでなければ、「何のために」というのは生まれてから色々なことを教えられ、色々なものに影響を受け、色々なものを選んだりしていく内に決まっていく(決めていく)ものだと思う。最初から「何のために」が決まっている子供はいない。最初から「何のために」が決まっていて、でもそれが何なのかは知らされない、という、いわゆる運命っぽいシステム(?)である可能性はあるけれど。

 

少子化(と高齢化)が進むと最終的にどうなるのか。極端になるけれど、地球の人口割合が高齢者99.99%、若者や子供が併せて0.01%の状態を想像すると、もうほとんど自給自足のような形でやっていくしかないな、と思う。都市はなくなり、弥生時代みたいな社会になるかもしれないけれど、高齢者ばかりなので、狩りとかはできない。子供はほとんど増えない。人口は減っていくばかり。災害や巨大隕石などによらずとも、人間がいなくなってしまう。

 

という超テキトーな想像をしていると、まあ極端だけれど、少子化対策とは、人類が滅びないようにするために人間ができること、ではないかと思えてくる。さらに、いつか人類は滅びると仮定するならば、少子化対策とは、人類が滅びる時期を遅らせるために人間ができること、ではないかと思えてくる。遅らせる、というのは「先送り」だ。つまり嫌な言い方をすると、いつか人類は滅びると仮定するならば、少子化対策とは、人類が滅びそうな状況にあるが故の貧しさや余裕のなさ、人類滅亡を「すぐそこにあるもの」だと認識することで抱くであろう負の感情などを「先送り」にするために人間ができることだ、とも言えなくはな…くはないか。

 

私がワシャハゲ共和国に住んでいたころ、飲み仲間だった地元の漁師、カルロスが酔うたびに言っていた言葉がある。今日はその言葉で締めようと思う。

 

「この世から人間がいなくなっても、ワシャハゲの夕焼けは、変わらずに美しいのだろう。でも、この世から人間がいなくなったら、誰がワシャハゲの夕焼けを、美しいと思うのだろう。」