変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

トム

アラスカまで届く言葉を

トムは探しながら生きる

アラスカまで届く言葉を

探すことはトムのライフ

 

なんて言うと大げさだね

アラスカまで届く言葉は

いつも足元に落ちている

トムはそれを知っている

 

アラスカまで届く言葉は

糸になれば見つけられる

けれども糸になれるのは

十回に一回くらいなんだ

 

君は十回我慢できるかい?

トムは十回我慢するんだ

アラスカまで届く言葉を

ワイフに届かせるために

スカート

君のはいているスカート

僕のはいているジーパン

君がジーパンをはいても

わらう人はいないだろう

 

君のはいているスカート

僕のはいているジーパン

僕がスカートをはいても

わらわない人はいるかな

 

一度はスカートをはいて

渋谷の街をあるきたいな

風がたくさんはいるから

すずしいってウワサだよ

 

君のもっているピータン

僕はスタートをリピート

風がたくさんはいるから

つづけていれば、たまに

蛍光灯

星のつよい光より

蛍光灯の

よわい光のほうが

なんか落ちつく

 

ほんとうは

人と人が

出会うことに

意味はない

 

出会いは

意味もなく

血のめぐりを

よくする

 

出会いより

蛍光灯の

よわい光のほうが

ほんとうだ

 

なんか今

血のめぐりがよくて

意味はないけれど

うれしい

 

ぺぺぺぺぺ

ドアを開けると男がいて

ぺぺぺぺぺと言ったんだ

どういう事だと尋ねたら

ぺぺぺぺぺと言ったんだ

 

ふざけるなと怒鳴ったら

ぺぺぺぺぺと言ったんだ

こいつはマジやばい奴だ

ぺぺぺぺぺとしか言わぬ

 

何を尋ねてもぺぺぺぺぺ

こいつはぺぺぺニストだ!

いや、よく聞いてみると

ぺぺぺニストではない……

 

ぺぺ〜ぺ〜ぺぺ〜の時や

ぺぺ〜ぺぺぺの時がある

こいつはガチやばい奴だ

こいつはぺぺ〜ニストだ!!!

まともが分からない

詳細は省くがちょっとした出来事があった為に自分がまともなのか分からなくなっているのだが、こういう時に僕は、表現物を使って自分がまともであると思おうとしていることに気付いた。たとえば僕は今、星野源の歌をユーチューブで聴いていて、いい歌だな~、とかぼんやりと思っているのだが、『星野源の歌をいい歌だと思える=まとも』みたいな感じで自分がまともだと思おうとしている。それだけではない。さっきまで僕は世界の果てまでイッテQというテレビ番組を観ていて普通に笑っていたのだが、『世界の果てまでイッテQで笑える=まとも』みたいな感じで自分がまともだと思おうとしていた。加えて言えば、自分が書いた記事にたまにではあるがはてなスターが付いていることを思い出して、自分がまともだと思おうとしている。お分かりのように、僕は自分がまともであることの根拠(拠り所)を外部に求めようとしている。そしてそれは間違いではない。僕がまともかどうかを判断するのは僕ではない、僕がいくら自分がまともだと思っていても、他者がまともでないと判断すれば僕はまともでない。

 

少し言い過ぎかもしれない。僕は自分に自信がないのだろう。しかし自分はまともだと思っているクズと、自分はまともでないと思っている紳士では、前者はまともでないと判断されやすく、後者はまともだと判断されやすいだろう。つまり【一般的な】まともかまともでないかの基準は内心でなく容姿、何をするか、どこへ行くか、どのように振る舞うかにあると言ってよいだろう。ただこれが【本質的な】まともかまともでないかの基準という話になってくると哲学?などの領域のテーマになってきそうなので僕には分からない。

 

僕はあくまで【一般的な】まともについて悩んでいる。【一般的な】まともというのは、みんなが良いと思えるものを良いと思えることであり、みんなと同じような容姿をして、同じようなことをして、同じような場所へ行き、同じような振る舞いをすることであり、みんなが分かることを書くことである。みんなが戦争に賛成するなら、賛成するのが【一般的な】まともである。そしてみんなというのは所属する家族や会社や国家のことである。要するにみんなというのは本当のみんなではない。なので所属が変われば、【一般的な】まともかまともでないかの基準も変わる。

 

と、ここまで書いたら、別に【一般的な】まともでなくてもいいやと思ったりもするのだが、【一般的な】まともでなければ、もの凄く生き辛い……。【一般的な】まともでない人というのは疎外されやすくて、その疎外感がめっちゃ辛い……。だから年を取ってもロックだのパンクだのやっている人は本当にすげえですよ。

 

人間関係は取引だ

人間関係は取引だ。なので相手から何かをもらう代わりに、こちらも何かを差し出すのがデフォルトだ。人間関係は取引なので、こちらが得をするように動くのが良い。しかし難しいのは、得をするためには損をしなければならない場合がよくあり、その辺りは運やセンスや技術が問われる。終わりよければすべて良し、という言葉があるが、人間関係においても、トータルで得をしていればそれで良いのかもしれない。人間関係は取引なので、相手は選ぶべきだ。損をすると分かっている相手とは取引をしないのがデフォルトだ。よって相手を見極めるための知識や経験を養ったほうが良い。加えて、難しいのは、その相手との取引によって損をするが、その相手と繋がりのある(あるいは変な話、全く繋がりがなくても)別の相手との取引で得をし、トータルで得をするなら、その相手との取引で損をするのも必要になってくる場合があるということだ。人間関係は取引であり、取引は複雑だ。

 

『生きている限り、誰かと関係し続けなければならない。生きている限り、誰とも関係のない状態はない。』

そうであるならば、僕たちは取引をし続けなければならない。僕たちは複雑なこと(=取引)をし続けなければならない。

 

でも、気楽にやっていきたい。

ララバイ

ララバイならどこでも行ける

世界一高いビルにある鳥の巣

売れっ子タレントの頭のなか

どこでも、君が望むところへ

 

地球はもちろん遠くの星へも

紅梅色に燃えている星の渓谷

だれも知らない星のデパート

どこでも、君が望むところへ

 

宇宙の外にだって行けるのさ

神さまが暮らすほったて小屋

ワルの天使がうろつく繁華街

どこでも、君が望むところへ

 

ララバイに乗って旅をしよう

心をすまして聴いてごらんよ

そのララバイが君のビークル

グッナイ、どうか楽しい旅を