ペペロンチーノ
ペペがなければロンチーノ
ロンがなければペペチーノ
サフランライス
サフがなければランライス
フラがなければサンライス
ひるはおそとでランチーノ
もらさないでねウンチーノ
よるがあけるよサンライズ
あさのあいさつなんだっけ
ぼくがおじさんになったら
わかいひとたちに
きもちわるいっておもわれるかな
ぼくがおじさんになったら
しごとがたいへんで
くるしいきもちになるかな
おじさんになったら
ぜったいにうんこをもらせないのかな
どうしよう
ぼくおじさんになりたくないよ
せんせい もしよかったら
ぼくがおじさんになりたくなるような
かっこよくてたのしそうな
まいにちうんこをもらすおじさんを
しょうかいしてくれませんか
おねがいします
ぶりっ
あるひとがいて ないひとがいて
ふしぎだね ちんぽ
ぼくにはあるよ ちんぽ
きみにはあるかな ちんぽ
あってもなくても ぼくはぼくかな
あってもなくても きみはきみかな
ちんぽがあっても おとなしくていい
ちんぽがなくても わんぱくでいい
あってもなくても えらさはおなじ
そうだよね ちんぽ
煙草を吸い始めたのは19才だった。最初は何が旨いのか分からずに吸っていた。変な言い方をすると、頑張って吸っていた。早く大人になりたかった。僕はもうすぐ30才になるが、今の精神年齢が19才くらいで、あの頃の精神年齢は14才くらいだった。たぶん高校時代を楽しまなかったから、精神の成長が遅くなっているのだ。僕はこれまでもこれからも、実年齢より精神年齢が低いのかもしれない。
高校時代は不良の中林と一緒にいることが多かった。と言っても学校の中にいる間だけで、学校の外で一緒にいることはなかった。僕は中林が自転車置き場で煙草を吸う時に、先生が来たら知らせる役をよくしていた。僕は中林の舎弟だった。僕はクラスメイトから陰で「ナカーシャ(中林の舎弟の略)」と呼ばれていた。学校の外で一緒にいることはなかったから、学校の中だけの舎弟だった。僕は中林にいつもヘコヘコしていたのだが、その頃の体質が抜けず、今でも不良っぽい奴(過去に不良だったっぽい奴)にはヘコヘコしてしまう。ヘコヘコした後で、自己嫌悪に襲われる。中林のせいだ。
煙草の話に戻る。20才になってから吸うのではダメだった。一刻も早く高校時代の損失を取り返さないといけない。言葉にはなっていなかったが、しかし明確にその意識によって僕は煙草を吸った。頑張って吸った。今ではヘビースモーカーだ。最悪だ。後悔している。何でも頑張ればいいという訳ではない。
やはり僕は高校時代を楽しまなかったことがコンプレックスになっている。高校時代を楽しめていたら煙草を吸わない人生だったかもしれない。もっと素直になっていれば良かった。もっと女子と話していれば良かった。周りの目なんか気にせずに女子と話していれば良かった。自意識過剰。タイムゴーズバイ。エブリリトルシング。はあ。
とにもかくにも、19才の僕は焦っていた。18才までは何だかんだ言ってもボーッと生きていたが、19才になると焦ってきて、20才になるまでにクリアしておきたい課題が生まれた。それは童貞を卒業することだった。僕は童貞を卒業する為に留学を諦めた。そして童貞を卒業したのは23才だった。留学しておけば良かった……。もしも、もしも。高校時代に童貞を卒業していたら19才でアメリカかカナダかイギリスに留学して英語ペラペラになってモテモテで一流企業に就職出来たのに!くそう!中林のせいだ!……と、まあ人のせいにしまくっている間はダメだ。ダメなことを否定してもよいのかは分からないが。
キース・リチャーズのように、もう過去に囚われるのはやめて、今を生きよう。幸運と他人の助けと少しの頑張りの3点セットでやっていこう。無理せずに。
ニートだった時期がある。社会に出てから今までの半分くらいはニートだ。生まれてきてすみません。今は働いているとは言い難いけれど働いている(どっちだよ)。けれど、気持ち的には7割くらいニートだ。そういうだめだめな自分を何とか肯定しようと以下のようなことを書いた。むだな足掻きだ。
僕は僕でしかないから他人のことは分からないけれど、もしかすると、みんなそこそこニートなのではないかと思うときがある。ここで言うニートは気持ち的なあれです。気持ち的なあれで言うと、僕は少し前までは、ニートかニートでないかのどちらかしか選べなかった。今は幸運にも、ニートではないけれどニートであることが出来ている(?)。言い換えても分からないかもしれないけれど言い換えると、ニートでありつつ働く(気持ち的には7割くらいニートで働く)、というのが出来ている。他者に助けられているから出来ている。(他者が嫌になるのも事実だし、その他者に助けられているのも事実だ。ここら辺の葛藤が少なくない頻度である)
人は一人では生きていけない、という定型句のような言葉がある。そして生きるということは谷川俊太郎曰く、ピカソであり、ミニスカートであり、木漏れ陽がなんちゃらであり、泣き、笑い、怒れるということらしい。何を言っているのか分からない人は、谷川俊太郎の『生きる』という詩を読んでみましょう(読んでも分からないかもしれません。僕もあまり分かっていません)。
その詩を踏まえた上で思うことは、気持ち的なあれで言うと、生きるためには多少なりともニートでなくてはいけないということだ。多少なりともニートでなくては、ピカソやミニスカートや木漏れ陽や、自分のなかにある感情に気づけない。ニートとは空白だ。僕に空白がなければ、僕に木漏れ陽は差し込まない。すべてが空白になってはいけない。けれど、空白がなくなってもいけない。
人は一人ではニートであることが出来ない。ニートという言葉を正確に使うなら、人は一人でもニートであることが出来る。もちろんそんなことは分かっている。けれど、僕がここで使っているニートという言葉は気持ち的なあれだ。ここで使っているニートという言葉は、だらけた青年みたいなものを意味している。伝わらなさそうなたとえで申し訳ない。
最後に、(僕の妄想上の)著書『ニート道』から言葉を引用する。
三流のニートは助けを求められずにいる。二流のニートは運良くだれかに助けられている。そして一流のニートは助けられる術を知っている。
ちょっと前に、HSP(ハイセンシティブパーソン)関連の本を読んだ。それによると、HSPの人というのは相手と自分の境界線が曖昧になってしまいがちらしい。僕がHSPかどうかは分からないけれど、境界線が曖昧になる感覚は何となく分かるような気がする。なので個人的なメモとして、ここに境界線が曖昧になることについて書いておこうと思う。テキトーなことを書くので、テキトーに読み流してほしい。
境界線が曖昧になると、だれかと話すときに意図せず相手の気持ちが入ってくる。相手の気持ちが入ってくることと、相手の気持ちが分かることは違う。前者はおそらく錯覚によるものであり、後者はおそらく経験によるものだ。あと、相手の気持ちが入ってくることと、相手の立場を考えることは違う。前者はおそらく性質であり、後者はおそらく技術だ。
たとえば誰かに一千万円を貸してほしいと言われたら、貨せないし貸さないのが(高須クリニックの院長とかは別として)普通だと思うけれど、境界線が曖昧だと、意図せず相手の気持ちが入ってきてしまい、相手の気持ちがたくさん入ってくると、相手の気持ち≒自分の気持ちのようになってしまい、そして、相手の気持ちは自分の気持ちも同然なのだから、相手の気持ちを満たそうとしないのはおかしい、相手の気持ちを満たさなくてはいけない、みたいになって借金してでも一千万円を貸そうとする可能性がでてくる。やばい。
相手に一千万円を貸してほしい場合でも同じように、意図せず相手の気持ちが入ってきてしまい、相手の気持ちがたくさん入ってくると、相手の気持ち≒自分の気持ちのようなってしまうので、貸してほしくても頼めない。相手から一千万円を借りるということは、相手の気持ちにマイナスを生じさせることなので、それは自分の気持ちにマイナスを生じさせることとほとんど同じだからだ。
下手をすると、無理をしてでも一千万円を貸してしまう。でも一千万円を借りることはできない。頼むこともできない。境界線が曖昧な人は、傍から見れば「お人好し」に映ってしまうかもしれない。でも実際は「お人好し」ではなく、相手と自分の間にちゃんと線を引けていないだけだ。念のために言っておくけれど、この文章はテキトーに書かれている。僕はこの文章をほとんど勘で書いている。
ちゃんと線を引くことは、心を閉ざすことではない。そして線を引かないことは、心を開くことではない。ちゃんと線を引いた上で心を開くことはできる。相手の気持ちが入ってくる(と錯覚する)のはしんどい。気持ち悪い。だから相手と自分の間にちゃんと線を引こう。相手を何とかするよりも、自分がちゃんと線を引けるようになることの方が現実的で、これから多くの場面で役に立つだろう。
ちゃんと線を引く練習として、次にだれかと話すときは、相手と自分の間にとれたてのマグロを置いてみようと思う。
等身大でいようとするのはしんどい。たとえば誰かと話すとき、等身大でいようとすればおどおどしてしまう。おどおどするのは正直しんどい。僕は自分に自信がないし、たぶん自己肯定感も低いから、等身大でいようとすればおどおどするのは、自分を正当化するなら、しょうがないっちゃしょうがない。
誰かと話すとき、等身大でいようとすればおどおどしてしまう。だから僕は等身大でいたくないと思うことがままある。誰かと話すとき、等身大でいたくないと思えば、尊大あるいは卑屈になってしまう。自分を大きく見せようとした分だけ、尊大になってしまう。そして自分を小さく見せようとした分だけ、卑屈になってしまう。「卑屈」については今回は省略する。
誰かと話すとき、尊大になってしまうと相手に嫌な感じを与えてしまう。相手に嫌な感じを与えてしまうと、相手はこちらと話すことが嫌になる可能性が高い。だったら尊大にならないようにすればいいのだけれど、尊大にならないようにするためには、等身大でいたくないと思うことをやめ、等身大でいよう、おどおどしてもいいや、と思うようにしないといけない。
でも当たり前だけれど、おどおどしてしまうことが良いわけではない。誰かと話すときにおどおどしてしまうと、嫌な感じは与えないとしても、楽しい会話はしにくいだろう。こちらがおどおどしていたら相手は困るだろうし、相手によってはこちらを舐めてきて、いじってきたりおちょくってきたりする人だっているだろう。それから、おどおどすると心が疲れる。前向きな疲れではなく、後向きな疲れだ。おどおどするのは正直しんどい。
尊大になってしまうのも良くないし、おどおどしてしまうのも良くない。でもどちらかを選べと言われたら、僕はおどおどする方を選ぶ。なぜなら僕と話すときに尊大になってしまう人を知っていて、その人と話すときに僕は嫌な感じを与えられるからだ。その人みたいに相手に嫌な感じを与えたくないと思うからだ。と言いつつ、まあ、僕も尊大になってしまうことはままある。
誰かと話すときのこちらの態度としてベストなのは、「尊大」でも「おどおど」でもない。ベストなのは、きっと「(おどおどせずに)等身大」だ。でもこれがとても難しい。ほとんど反射的に尊大になってしまうか、おどおどしてしまう。どうすれば良いのか。オバマに相談したい。