変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

こころの季節

夏に冷やされたこころが、冬に暖められる。人は基本、活動的な時(夏)にこころを消耗し、活動的でない時(冬)にこころを回復させる。しかし例外はある。後で書くけれど、活動的でない時が長くなると、活動的でない時なのにこころを消耗する。人は夏ばかりでも、冬ばかりでもいけない。夏と冬を行ったり来たりしなくてはいけない。しかし現代においては、人は個人的な、あるいは社会の事情によって、行ったり来たりが困難になっている。補足しておくと、夏も冬もあくまで比喩であり、一分間だけの夏があれば、何年にも及ぶ冬だってある。

 

こころを消耗するのと引き換えに、活動的であることができる。躁状態に持っていくことができる、と言い換えることもできる(本来の躁状態の定義からは外れるかもしれない。ここでは「がんばるモード」くらいの意味で使っている)。自分を躁状態に持っていくと、後で鬱状態になる。上がれば下がる。苦もありゃ楽あり。栄枯盛衰。小池栄子

 

こころを消耗しやすい人がいれば、消耗しにくい人もいる。敏感な人はこころを消耗しやすく、鈍感な人はこころを消耗しにくい。それから、たとえば同じくらい敏感な人でも、こころのキャパシティの違いによって、消耗できる量が違ってくる。同じくらい敏感な人でも、10消耗するとぐったりしてしまう人がいれば、30消耗しても大丈夫な人もいる。

 

こころを消耗しない(こころを回復させる)ことは、結果として別の何かを消耗あるいは消費することになる。逆に言えば、こころ以外の何かを消耗あるいは消費することで、こころを消耗しないようにできる。別の何かとは、典型的なのが時間だ。こころを消耗しないために家に閉じこもれば、こころを消耗しない代わりに、時間を消耗することになる。タイムイズマネーらしいので、時間を消耗することは、お金を消耗することと同じだ。

 

家に閉じこもるという行為について言えば、それがこころを消耗しないためであっても、期間が長くなれば、こころを消耗することになる。そして、これは家に閉じこもるという行為に限らない。たとえこころを消耗しないための行為であっても、やり過ぎてはいけない。家に閉じこもり続けるのも、風呂に何時間も入るのも、お菓子を食べまくるのも、最初の内は有効だけれど途中からは無効になり、こころを消耗することになる。こころだけでなく、体の調子も崩すことになる。

 

バランス良く、夏と冬を行ったり来たりしたい。憧れはカロリーメイト

旅に出る

腹を立てない人はいない。僕はそう思っている。ずっと穏やかな人はいない。僕はそう思っている。だれだってだれかにムカついたり、イライラするときがある。もしもあなたが、「私は腹を立てたりしない。ずっと穏やかな気持ちでいるわ。」と思っているのなら、あなたは自分の感情を押し殺しているか、麻痺してしまっているのだと思う。有名人の〇〇さんはいつも穏やかだ、と言われるかもしれないが、あれはそう見せているだけだ。見せるのは簡単だ。アメーバブログで「毎日おだやかー☆」と書けば良いだけだから。というか、まあ、僕がそう思いたいだけなのだけれど。

 

改めて、僕は腹を立てない人はいないと思っているし、ずっと穏やかな人はいないと思っている。しかしここで僕が想定しているのは、「社会のシステムの上で暮らしている人」であって、たとえば出家した人のことは想定していない。

 

腹を立てるのは、理不尽に感じた時や、舐められているなと感じた時だと思う。もちろん他にも色々あると思う。しかし厄介なのは、僕の場合、理不尽に感じたり、舐められているなと感じるのは僕が幻を見ているせいかもしれない、と思ってしまうことだ。つまり、僕の認知が歪んでいるから、理不尽に感じたり、舐められているなと感じるだけで、正しい認知をするならば、理不尽に感じる場面ではないのでは、舐められているなと感じる場面ではないのでは、と思ってしまうことだ。

 

そういう時は、第三者に話してみれば良い。そうすれば、僕に共感するという意見や、共感できないという意見、理解できないという意見、あるいは相手の立場から見た意見をもらうことが出来、多少なりとも客観的になれるだろう。そして話すことで多少なりとも楽になるだろう。だからお前は友だちを作れ。この陰キャラめ。と、僕は僕に言ってみる。

 

とにかく腹を立てるのはしんどい。腹を立てるだけでもしんどいのに、相手をボコボコにする妄想をするようになったら、残念ながら僕の心はギガモンスターではないので、すぐに心の容量がいっぱいになる。しかし腹を立てない人になるのは不可能だ。無理。なので腹を立てたとしても心の容量がいっぱいにならないようにしたい。

 

そのための手段の一つとして、タイトルに行きつく。ベタなのだけれど、旅に出ることで、心の容量に空きを作るのが良い。たとえば海外に行って帰って来たら一週間くらいはすごく気持ちが軽くなっていることがあると思うのだけれど、それの縮小版みたいなことを小まめにやれば良い。旅に出ることは、自分のいる環境は自分にとっては中心だけれども、自分のいる環境は全体からみれば片隅に過ぎないのだ、ということを感じることであり、そして、「ちっぽけな自分」を見つけることでもあるように思う。人は案外「ちっぽけな自分」であることを実感すると、諦めがつくからか、満足の下位互換のようなものを得られる。満足の下位互換のようなものを得られれば、心の容量が少しは空くだろう。また、「ちっぽけな自分」を見つけることが出来れば、「ちっぽけな相手」だって見つけることが出来る。そして「ちっぽけなもの同士、仲良くやりましょうや」という気分に少しだけなれて、心の容量が少しは空くだろう。だからお前は旅に出ろ。このすっとこどっこいめ。

 

と、壇蜜に言われたい。

special lemonade

重さのない体になれたら、

きっと言葉なんかいらないのに。

体に重さがあるせいで、

言葉を必要としてしまう私は、

みんなが夜の寝室でこっそり飲んでいる、

特別なレモネードのつくりかたを知らない。

キョどるのは劣っているからではないと

あいつが認識してくれるなら、

私はすこし救われる。

社会に適応していれば大人だということに

この星ではなっていることを、

君と笑えたらいいのに。

抑圧でなくて、抑制ができなくなるとき、

いつだって私たちはけだものになり、

落ちていくけれど、

図太ければ落ちても生きていける

という事実が、朝を

暗くしていく。

しょうがねえ

長い間そこに住んでいたら、そりゃあそこを中心にして考えてしまうだろう。そこが嫌になってそこではないどこかへ行く、なんていうのも結局、そこが出発点になっているし、あなたがそこにそれなりに長い間住んでいたら、逃れようもなく、あなたの中心はそこにある。

 

あなたとあなたのクローンがいて、三才までは同じ場所でくらして、そこからあなたは地球、あなたのクローンは火星でくらすことになったとして、十年後、あなたとあなたのクローンの考え方が同じであるはずがない。当たり前だ。僕はどうして当たり前のことをこんなに分かりにくく書いているのか。人は環境に左右される生き物だ、と一行書けばすむ話なのに。

 

トランプとその家族について。選挙でトランプは問題発言とかしまくっていたから、トランプの家族は、応援したくないなとか、こいつが勝ったらやばいなとか、思うこともあったと思う。でもやっぱり彼らの今の地位とか収入ってトランプによるものが大きいし、トランプと一緒にいる機会とかも多いし、まあ家族だし、となると彼らは良くも悪くも、トランプをひいきしてしまう。トランプの家族にとって、トランプをひいきしないことは、子供っぽいことなのではないかと思う。守るものもあるだろうし。トランプを応援したくないという思いが沸いてきても、「愛」でのりこえる、とかではなくて、「しょうがねえ」という呪文みたいなやつを心のなかで唱えることでやりすごしたのではないか。意識的に、あるいは無意識に。そして「しょうがねえ」という呪文みたいなやつを唱えることで荒れそうな(あるいは荒れた)気持ちをやりすごす人はトランプの家族にかぎらずけっこういて、そういう人たちが社会を支えている部分は少なからずあるように思える。教師の「しょうがねえ」があれば、生徒の「しょうがねえ」があり、金持ちの「しょうがねえ」があれば、貧乏人の「しょうがねえ」がある。妻の「しょうがねえ」があれば、夫の「しょうがねえ」があり、マジョリティの「しょうがねえ」があれば、マイノリティの「しょうがねえ」がある。僕の「しょうがねえ」があれば、あなたの「しょうがねえ」がある。「しょうがねえ」によって、なんとか社会は維持されていたりする。

 

一番しんどいのは、「しょうがねえ」と心のなかで唱えても意味がないときだ。「しょうがねえ」と心のなかで唱えて意味がある(すこし安定したりする)のは、現状において、それなりにメリットがあるときだ。メリットとデメリットを天秤にかけて、ほぼ完全にデメリットが勝っているなら、「しょうがねえ」と心のなかで唱えても意味がない。たとえば、仕事が苦ではないというメリットと、拘束時間が毎日十二時間で日曜しか休めなくて給料が月に一銭だというデメリットを天秤にかけると、お金に余裕のある人以外は、ほぼ完全にデメリットが勝つと思うので、「しょうがねえ」と心のなかで唱えても意味がない(やせ我慢みたいになってしまう)ので、状況を変えたほうがよいように思える。

 

「しょうがねえ」の反対は「やっぱりおかしい」とか「このままではいけない」だろうと思う。人間は矛盾しているのが普通らしいので、一人の人間のなかに「しょうがねえ」と「やっぱりおかしい」「このままではいけない」があるのは普通だと言える。音楽でたとえると、ベースとかドラムが「しょうがねえ」で、ギターとかボーカルが「やっぱりおかしい」「このままではいけない」だ。ベースもドラムも大事だし、ギターもボーカルも大事だ。

 

あなたがいい音楽を鳴らせることを僕は願っている。

小さな庭を旅しながら

悲しみにゆらされないように、

静かになっていこうね。

悲しみがあふれないように、

軽薄になっていこうね。

空が落ちてきそうなくらいつらいとき、

頼れるものがj-popと文庫本だけにならないように、

ちゃんと遊んでおかないとね。

にせものの愛にだまされないように、

もっと賢くならないとね。

好きな人がトンネルをぬけるまで、

小さな庭を旅しながら、

その日を待っていようね。

kuzu

クズのいない世界でクズとして生きるなら、

きっと幸せなのだろう。

まわりのやつらがみんなクズに思えるなら、

きみもきっとクズなのだろう。

自分のことを、

壊れかけのレディオのように思えるときは、

地球にいるほとんどのおっさんは、

ティッシュよりも価値がないという事実が、

わたしに寄りそってくれる。

正しさが生きることの邪魔をしてきても、

生きることが正しさをねじまげてしまっても、

きみの好きな食べ物が、

いつでもコンビニにありますように。

きみの好きな人のやさしさが、

いつまでも、モネの絵画のようで

ありますように。

自己肯定感とそれに似た言葉

自己肯定感について書きたくなった。なぜ書きたくなったかというと、有名なブロガーの方が「私の使っている自己肯定感の意味と他の人が使っている自己肯定感の意味が違っているようだ」というようなことを書かれていて、僕はそれを読み、自己肯定感という言葉の意味をイマイチ掴みきれていないのは僕だけではないのかもしれないと思ったからだ。僕は自己肯定感という言葉の意味が分かるようで分からないので、自己肯定感という言葉は使えそうで使えない言葉ランキングの上位にある。

 

なぜ自己肯定感という言葉の意味が分かるようで分からないかというと、たぶんだけれど、自己肯定感に似たような言葉があるからだと思う。たとえば自己愛という言葉があったり、自己正当化という言葉があったりする。曖昧な表現になってしまうけれど、「いい感じ」なときに、これが自己肯定感かなと思っていたら、自己愛や自己正当化だったというパターンがわりと多くて、「自己肯定感って何だよ!!!」となる。

 

あくまで推測なのだけれど、自己愛や自己正当化という言葉を使うと、相手はネガティブな気持ちになりやすいのに対し、自己肯定感という言葉を使っても相手はネガティヴな気持ちにあまりならないように思う。私がだれかに「自己愛が強い人ですね」と言うときは、少しは嫌味のつもりなのだろうし、「それは自己正当化ですね」と言うときは、負かしたいという気持ちが少しはあるだろう。一方でだれかに「自己肯定感が高いですね」と言うときは、おそらく相手を褒めていたり、羨んでいるときで、「自己肯定感が低いですね」と言うときは、相手の相談に乗っているときのように思える。私は自己肯定感という言葉を、意味が分かっていないため使えないので、あくまで推測なのだけれど。

 

これら(自己肯定感、自己愛、自己正当化)は、「自分を認めるために必要なもの」という点では同じだけれど、「自分や他人が損をする可能性があるかどうか」という点では自己肯定感とその他(自己愛、自己正当化)は違っている。たぶんだけれど、自己肯定感が高くても、だれも損をしないのだと思う。一方でたとえば、自己正当化(「俺は悪くない!」etc)というのは、自分を白(シロ)にすることでだれかを灰色や黒(クロ)にしてしまう可能性がある。また、自己正当化をすることで周りからの信頼を失い、自分が損をしてしまうという可能性もある。

 

自己肯定感が高くても、だれも損をしない。そうであるならば、もしかすると、曖昧な表現になってしまうけれど、自分が「いい感じ」なときに、その「いい感じ」が自分を含めただれかに損(傷つけたり不快にさせたり、も含む)をさせてしまうかどうか、あるいは損をさせてしまった結果としての「いい感じ」なのかどうかを判別することができれば、その判別を繰り返すことで、自己肯定感という言葉の意味が掴めてくるのかもしれない。