変なポエム。など

小心者のブログでごんす。パラノイア的な

蟻感

先週、友人の披露宴に行ってきた。行きたくないなあ嫌だなあと3か月くらい前から思っていた。マウンティングや見下しが発生するかもしれないと思うと、行きたくなくなる。そもそも視線恐怖症っぽいところがあるので、集まりが苦手だ。披露宴の直前に精神を安定させようと思って、トイレで正露丸を飲んだ。正露丸のおかげもあってか、披露宴は普通に楽しかった。新郎に「お前、正露丸くさくね?」と言われたけれど。

 

披露宴の会場に向かうために、新幹線に乗っているときに、窓の外をながめると住宅街があって、それが「巣」のように見えて、そして、人間は「大きな虫」だと思った。披露宴の会場がある都市に着くと、人間がたくさんいてしんどくなった。けれどたくさんの人間が行き交っているのを見て、なんだか蟻っぽいな、と思ったあたりから楽になった。

 

どこかの話で、人間をカボチャだと思え、みたいなのがあったと思うけれど、私の場合はカボチャよりも蟻のほうがしっくりくる。とりあえず披露宴から現在までのあいだは、だれかの言葉や行動を嫌に思うことがあっても、「どうせ蟻じゃん…」と思うことでしのげている。人間を蟻だと思うことで楽になる、みたいなライフハック?はけっこうアリな気がしている。蟻だけに。それではみなさんよい週末を。

 

わたしが天才だったとき

わたしは自分のことを天才だと思っていた。具体的には中学三年〜高校一年の秋まで、わたしは自分のことを天才だと思っていた。

 

わたしが自分のことを天才だと思うようになったきっかけは、おげれつハイテンションというテレビ番組だった。中学三年のある日、おげれつハイテンションを観ていてMCのちんぽ太郎がボケたときに、わたしは「この人(ちんぽ太郎)は天才だ」と思った。ちんぽ太郎のボケは「頭にある穴にピンポイントで針を刺すようなボケ」だった。そして、わたしはこうも思った。「この人(ちんぽ太郎)が天才ならば、わたしも天才だ」と。完全にどうかしているけれど、わたしがクラスメイトに対してボケる感じと、ちんぽ太郎のボケる感じがとてもよく似ていたのだった。わたしは、ちんぽ太郎に憧れたりとか、尊敬するのでなく、ちんぽ太郎と同じレベルなのに、場所はちがえど同じレベルのボケをしているのに、わたしのボケはお金になっていなくて、ちんぽ太郎のボケはお金になっているのが不満であり、不公平だと思っていた。中学三年のわたしにとって、ちんぽ太郎はずるいやつであり、ライバル(もちろん一方的に)だった。

 

ちんぽ太郎をライバルだと思うようになってから、わたしは笑いに対して神経質になっていった。一週間くらい自分の納得のいくボケができないと不安になった。一週間も自分の納得のいくボケができないと、わたしは天才でなくなってしまったのではないか、と不安になった。そして、自分の納得のいくボケができると「やはりわたしは天才だ」と思えるので安心した。当時のわたしが感じていたのは、そこそこのボケをすると、クラスメイトは普通に笑うということ。そして、すごいボケをすると、クラスメイトは爆笑するか、黙ってしまうということ。黙ってしまうのは、クラスメイトがわたしのボケを理解できないからか、ボケがすごすぎて言葉を失っているからだったけれど、すごいボケをしたという確信があれば、理解できないのはクラスメイトのレベルがわたしよりかなり低いからだ、と思えたので、わたしのすごいボケをクラスメイトが理解できなかったとしても、わたしが揺らぐことはなかった。わたしはすごいボケ、いわゆる「頭にある穴にピンポイントで針を刺すようなボケ」ができた。また、わたしは女にうつつを抜かすと、すごいボケができなくなると思っていた。

 

わたしは自分のことを天才だと思ったまま、中学を卒業して、高校に進学した。もしかするとわたしのほかにも、笑いの天才がこの高校にいるのではないかと思ったりもしたけれど、そんなやつはいなかった。笑いにおいて、付き合う人たちはみんなレベルが低かった。どうレベルが低かったかと言うと、付き合う人たちはみんな、そこそこのボケをすることで満足していたし、そこそこのボケこそが笑いにおいて目指すべきものだと思っているようだった。高校生にとって、笑いは神経質になってまで追求するものでなく、そこそこのボケで十分であり、普通に笑えればそれでよいのだった。すごいボケ、いわゆる「頭にある穴にピンポイントで針を刺すようなボケ」はまったく望まれていなかった。わたしはまわりに流されて、そこそこのボケばかりをしてすごいボケをしなくなり、頭のなかにある「すごいボケを思いつくためのスイッチ」をオフにするようになっていった。しまいには「すごいボケを思いつくためのスイッチ」がどこにあるのか分からなくなり、すごいボケができなくなった。高校とは、普通に楽しいおしゃべりをする場所であり、キスやセックスをする相手をさがす場所なのであって、すごいボケをする場所ではなかった。

 

高校一年の秋、空がとてもきれいだった日。リンボーダンス部に入っていたわたしは、練習を終えて部室へ向かう途中で、脳みそから異物が消えていく感じがして、「あ、天才でなくなっていく……」と思った。

2016/10/9

トップスをティーシャツ一枚で外へ出ると寒いくらいになってきた。季節はもう秋になっている。ほんの少し、もう冬の匂いがしている。わたしは図書館の駐車場で煙草を吸っている。太陽があたたかい。

 

勉強用のテキスト四冊とノート一冊、それからボトル缶のコーヒーを入れたカバンを持って家を出た。町は秋まつりらしく、田舎のくせに渋滞していた。図書館に向いながら、iphoneのCMで流れていた曲を調べていて、ちょうど図書館に着いたころに、その曲が好きだったバンドの元メンバーが作った曲だと分かった。来週、遠くの都会で友人の結婚式があって、帰りは夜行バスにしているから、その時に聴いたらいい感じだろうなあとか思った。

 

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図書館で映画一本分くらいのあいだ勉強したところで、ちょっと煙草でも吸おうかな、つってカバンを持って席を立った。ふとカバンの中を覗くと、机に置かず、カバンの中に入れたままだったテキストの一冊に、ボトル缶から漏れたコーヒーがかかっていた。表紙の半分くらいが茶色くなっていた。またかよ、とわたしは思った。ひと月ほど前にも同じように、カバンの中に入れていた金の延べ棒に、ミッキーのミニミニドラム缶から漏れた硫酸がかかっていたことがあったのだ。わたしは反省をしながら、図書館の駐車場で煙草を吸っている。もう帰ろうかな。

少子化が進みまくった社会を超テキトーに想像してみた

ワシャハゲ共和国の諺に「病気になるリスクのないセックスは楽しい」というのがある。セックス、それは本来であれば子供を作る行為だ。しかし私たちは快楽を得るためにセックスをする。それはワシャハゲ共和国も日本も変わらない。

 

私は子供がいないので、親になるとどうなるのかが分からない。親になると、優しくなったり、愛が深くなったり、視野が広くなったりするのだろうか。要するに、人間的に成長するのだろうか。「人間的に成長したいなら、子供を作ろう!」という宣伝を少子化対策として行うなら、どのくらい効果があるだろう。その宣伝に釣られて子供を作る人がいるとしたら、可笑しいな、と少しだけ思う。

 

アンパンマンマーチの中に「何のために生まれて    何をして生きるのか」という歌詞がある。子供は何のために生まれてくるのか。たぶん生物学的には、子供は子供を作るために生まれてくる。そして子供の子供も、子供の子供の子供も、要するに生まれてくる子供はみんな、子供を作るために生まれてくる。人間がいなくなってしまわないように。

 

でも生物学的にでなければ、「何のために」というのは生まれてから色々なことを教えられ、色々なものに影響を受け、色々なものを選んだりしていく内に決まっていく(決めていく)ものだと思う。最初から「何のために」が決まっている子供はいない。最初から「何のために」が決まっていて、でもそれが何なのかは知らされない、という、いわゆる運命っぽいシステム(?)である可能性はあるけれど。

 

少子化(と高齢化)が進むと最終的にどうなるのか。極端になるけれど、地球の人口割合が高齢者99.99%、若者や子供が併せて0.01%の状態を想像すると、もうほとんど自給自足のような形でやっていくしかないな、と思う。都市はなくなり、弥生時代みたいな社会になるかもしれないけれど、高齢者ばかりなので、狩りとかはできない。子供はほとんど増えない。人口は減っていくばかり。災害や巨大隕石などによらずとも、人間がいなくなってしまう。

 

という超テキトーな想像をしていると、まあ極端だけれど、少子化対策とは、人類が滅びないようにするために人間ができること、ではないかと思えてくる。さらに、いつか人類は滅びると仮定するならば、少子化対策とは、人類が滅びる時期を遅らせるために人間ができること、ではないかと思えてくる。遅らせる、というのは「先送り」だ。つまり嫌な言い方をすると、いつか人類は滅びると仮定するならば、少子化対策とは、人類が滅びそうな状況にあるが故の貧しさや余裕のなさ、人類滅亡を「すぐそこにあるもの」だと認識することで抱くであろう負の感情などを「先送り」にするために人間ができることだ、とも言えなくはな…くはないか。

 

私がワシャハゲ共和国に住んでいたころ、飲み仲間だった地元の漁師、カルロスが酔うたびに言っていた言葉がある。今日はその言葉で締めようと思う。

 

「この世から人間がいなくなっても、ワシャハゲの夕焼けは、変わらずに美しいのだろう。でも、この世から人間がいなくなったら、誰がワシャハゲの夕焼けを、美しいと思うのだろう。」

「やる気」に対する違和感

アルゼンチンで暮らし始めてもうすぐ三ヶ月。日本を恋しく思うこともなくなり、異国での生活にすっかり慣れてしまった。ルームメイトのヨランダが優しくて本当に良かった。彼女の作るチュッパチャプスの丸焼きは最高だから、あなたにも食べてほしい。仕事にもありつけたし、新たな人生のスタートとしてはまずまずだ。

 

私のしている仕事はすごい楽なのだけれど、やっぱりその分、給料はすごい安い。私に寄付をするための財団を誰かつくってほしいくらいに安い(?)。とはいえ、私はあまりお金に執着がないので、隣の芝生を青く感じさえしなければ、まあ気楽なものだ。

 

不思議に思うのは、私はいますごい楽な仕事をしているのだけれど、それと同じくらいの楽さで私よりたくさんお金をもらっている人がいたり、逆に私よりしんどい仕事をしていて、私よりも安い賃金しかもらえていない人もいるということだ。まあ、そう思うのも勉強不足だからなのだろうけれど、たぶん説明されたところで、納得はしないような気がする。正直、コンビニの店員さんとか、もっとお金をもらってもおかしくないのにと思うし、逆に会社の社長とか経費でえっちなお店に行ったりしていてずるいなあと思う。

 

タイトルのことなのだけれど、「やる気」って必要ですか?と私は思っている。自慢になるけれど、私は「やる気」がなくても足し算はできるし、引き算もできる。二足歩行だってできるし、漢字だって書ける。それに足し算を覚えるのに「やる気」を必要としなかったし、それは引き算にも二足歩行にも漢字の(読み)書きにも言えることだ。それらは「やる気」ではなく「好奇心」によってできるようになったのではないか。

 

と、まあ半分は冗談なのだけれど、少なくとも私の中で「やる気」は「空回り」の原因になるもので、あまり良いイメージがない。私には、「やる気」にまつわることでとても嫌なパターンがある。それは、「やる気」がなさそうに見えてしまうことを恐れて「やる気」があるように見せようとして本来の力を充分に発揮できなくなり、しかも他人には私が本当には「やる気」がないことを見破られていると私が妄想してしまってもうどうすればよいのだー!となってしまうパターンで、要するに「空回り」なのだけれど、これはあるあるなのだろうか。とにかく私は「空回り」が大嫌いなのだけれど「空回り」しやすいタイプなので生きるのがつらい。生きるのつらい絶対殺すマン来てくれー!(知らない人は検索してね!)まあ、言いたかったのは「やる気」が善だとするのはちょっとおかしいぞ、ということです。

 

あとアルゼンチンの国民的アイドル、ホセロペ・クルスのグラビアを見ていて気付いたのだけれど、私はおっぱいよりもおしりに興奮するらしい。

tear

ほころびをすべて

ポップソングで解決しようとするなら

ピカピカファンタジーのなかでしか

生きられなくなるよ

泣きたいのなら泣けばいいよ、でもね

ひとりで泣いてはいけないよ

涙は見せてこそのアイテムだからね

泣きたいのなら

涙を見せられる人が必要だよ

その人を好きになれなくても

涙を見せられるのなら、利用しないとね

それが私たちのスタイルだからね

ほころびをすべて

ひとりで解決しようとするなら

ギザギザハートのロボットに

なってしまうよ

diving suit

夏がマシュマロを溶かして、

春に自慢しているのを目撃した母親が、

夜の食卓で、

季節も人間と変わらないねって言ったなら、

金髪にする権利を私はもらうよ。

面白いのは日本史だけれど、

今はグローバル社会だから

世界史を選びなさいって父親が言ったから、

私はもう日本史しか選べなくなったよ。

いつから君を好きになったのか。

思い出そうとすればするほど、

君の株価が下がっていくよ。

私が負け犬だということを、

君が気づかせてくれるのを待っているよ。

2016年はもう栗皮色。

冬にそなえて、

私は潜水服を注文したよ。